沖縄への旅           −ホ−ムペ−ジのトップに戻る−                  

此処が首里城の正殿で、戦火で焼滅したが1992年に再建され、2000年に沖縄の他の城跡8ヵ所と共に世界文化遺産として登録されたが、私は此処に来るまでこの正殿が守礼門とばかり思っていた。しかし、2千円札に描かれている守礼門は、正殿よりずっと下の首里城公園の近くに在った。そして、この正殿はかつて沖縄でサミットが開かれた時に正殿の前の広場で各国の元首達が揃って記念写真を撮ったことでも有名だが復元されて14年(2006年現在)と新しい事も有り実に綺麗だった。

その正殿の前の広場は御庭(ウナ−)と呼ばれ、此の場所で重要な儀式が繰り広げられたことを正殿の中の沢山の資料で知ったが、以前中国の北京で観た紫禁城に通じる雰囲気をこの正殿に感じるのは琉球が中国の影響を強く受けているからであろうか、少なくとも日本建築とは趣が異なっている。
此処が正殿へ行く途中で初めて沖縄建築を観た「立派な泉」と言う意味を持つ「瑞泉門」だが、琉球の建物が日本建築と異なる雰囲気を持つのは、柱や壁等を朱色に塗りその上にウルシが重ねて塗られているのが理由だそうで、この色合いはどちらかと言うと、中国様式に近い風情をかもし出しているように感じた。
私は、那覇空港に着いてからモノレ−ルで首里城駅迄行き、其処から福岡空港の待ち時間に読んだガイドブックを頼りに首里城から見て東側の道をお城に向かったが、円覚寺跡と書かれた古いお寺や池を通り坂道を登ると右側から来る道と合流し、そこを左に折れるとこの瑞泉門があり、そして幾つかの建物の先に正殿があった。

その首里城の周囲は海の傍に有りながら小高い丘で強固な山城になっていることが判ったが、日本が戦国時代の頃にはそれ迄の支配者が滅びその後の王位継承の争いが永く続く中で新しい王様がこの地を統一したのだそうだ。

しかし、翌日行った名護市にある今帰仁城(ナキジングスク)やその他の多くの実力者を新しい王は次々に滅ぼし最終的な琉球王国を造りあげた歴史を首里城で買い求めた写真集で(山梨へ帰ってから)じっくりと読み覚えたが、偶然大宰府にある博物館で琉球特別展をやっていて、其処でも観ることが出来て、琉球を知る上で貴重な学習をしたと思っている。
此処がガイドブックで仕入れた「金城の石畳」だが、日本の道100選に選ばれているとの事で丁度その日に泊まるホテルへ行く途中にある場所であることを知り歩いて見た。

確かに、平坦な所もあるが殆どが坂道で、キャリングケ−スを持ち上げて歩くのが辛かった。しかし、途中に沖縄の民家や独特の塀もあり、此処が沖縄である事を実感した。

何でもかつてNHKの朝ドラで「チュラさん」のモデルになった家が紹介されていたが、現在人が住んでいるので入らないでとの看板が立っていた。

そして、道に迷いながら一時間を掛けてホテルに到着した。

翌日はレンタカ−をチャ−タ−(事前予約)して那覇より北部を観て回ったが、まず那覇ICから許田IC迄の沖縄道(58km)を走ったが、その高速道は殆ど平坦な道で、インタ−チェンジを出て暫く走ると、道の駅(許田)に着いた。

そこで水族館の割安入場券を途中で買い美ら海(ちゅらうみ)水族館に行ったが、最初は屋外のイルカショ−(オキチャン劇場)が目に止まり少し観てからその後、海がめやマナティ−を地上と地下から観る小さな水族館を観て、いよいよ本格的な美ら海水族館に行って見ると、そこはサンゴの中を無数の魚が泳ぐ大きな水槽と、その隣にある水槽には、2匹の7m以上は有る大きな甚平ザメが泳ぐ日本で最大の水槽があり仰天した。

いつか、孫と此処でジャンボなサメを観たいと、強く思った。

この画像がその甚平ザメであるが、こんなに大きな鮫を観たことが無くしかも多くの無数の魚達とのんびりと泳いでいる姿が実に楽しかった。そして、5月連休の最後日の精か多くの家族連れで館内は賑わっていた。

処で、此の美ら海水族館は名護市の本部(もとぶ)に有るが
かつて此処は沖縄海洋博が開催された場所で其の後にこの美ら海水族館などが造られたと言う。

さて、「美ら」と書いて「ちゅら」と読むのだが、沖縄では美しい事を「ちゅら」と言うそうだ。しかも沖縄の言葉は難しく今帰仁を「なきじん」と読み、読谷を「よみたん」、北谷を「ちゃたん」と読む等を知らなかったし、今帰仁には昔お城が在り、そうした「城」のことを沖縄では「ぐすく」と読むことも初めて知った。
那覇から那覇ICへ向かう途中にある豊城は「トミグスク」と
読むことも覚えた。

此処が水族館の後に行った恩納村に有る「琉球村」で、3時半に着いたが、4時からのアトラクションが実に最高だった。それは、王様を先頭に民族衣装を身に着けた人達が登場し琉球舞踊で始まると、棒術や舞踊や獅子舞いや口笛を鳴らしながら三味線(沖縄では三線と書いて「さんしん」)で沖縄民謡を唄い、観客を巻き込んで踊る30分のアトラクションで、実に素晴らしく楽しかった。

処で、沖縄の人達は底抜けに明るい性格の人が多く、穏やかに生活をしている様に見えたが、日本への復帰を強く望み幾多の困難を乗り越えてそれでも心から我々を歓迎してくれる沖縄の人々(うちなんちゅう)が今回大好きになった。

そして、自らの民族を大切にしながらたくましく生きる人達に大勢お会いしたが、そうした沖縄を自分のこの目でしっかりと観ることが出来た今回の沖縄の旅の想い出を、いつまでも大切にして置こうと思っている。

この画像は、観客を巻き込んで踊るアトラクションの最後の方の場面だが、全て生の演奏と口笛を鳴らしながら踊る沖縄の民謡も素敵だった。

そして、此処を観た後に国道58号線で那覇へ帰ったが、結構混んでいて走りずらかった。しかも道沿いにある米軍基地は正しく東京の横田基地とそっくりで自分が今、国道16号線を走っていると勘違いする程そっくりだった。しかも嘉手納基地は国道の両側が基地で基地の中を国道が走っている。
確かに沖縄が基地の町であることをこの日は実感した。

そして、この日は約190kmを走ったが、水族館と琉球村の他に「ネオパ−ク沖縄」と言う植物園の中に動物園が有り放し飼いの鳥や猛獣も大きな池の向こうに飼われていたが、沖縄独特の動物は無くまだ未完成な園で此処は面白くなかった。しかし、色々な所をカ−ナビで走ることが出来てレンタカ−を使い色々な所へ行けて良かったと思う。
この画像は琉球村から国道58号線を通って那覇へ戻る途中の嘉手納基地の画像だが、此処では両側共が基地では無い
けれど途中までは道の両側が基地で、横田基地とそっくりのフェンスとその奥にある建物も同じだった。

そして、此処を見た翌日、摩文仁の丘に在る資料館で沖縄戦の詳細を見聞きしたのだが、沖縄に集中している米軍基地に以前から関心があり、どの様な所か一度見て置きたかった。

その沖縄には最大級の基地である嘉手納の手前に読谷村(よみたんそん)の基地が有り、嘉手納町の先には北谷町
(ちゃたんちょう)そしてその先の宜野湾市に普天間飛行場があるなど、とにかく基地が連続していることが良く判ったが、
この日の夕方は生憎国道の渋滞も手伝い、実に私の気分は
すぐれなかった。

此処、摩文仁の丘は約24万人の刻銘碑(次の画像)が海に向って建てられていたが、何でも今回の沖縄戦で亡くなった人を国籍を問わず刻んであるとの事で「平和の(いしじ)」と名付けられていた。そして平和祈念資料館の開館が9時であったので、8時過ぎには此処へ着いていた私は、資料館前に広がる光景をゆっくり観ることが出来た。

また、此処摩文仁は荒波が打ち寄せる海岸から100m以上はあるであろう丘の上に有り、沖縄の人達(全部で15万人が戦死)の多くがこの丘から身を投げた悲しい断崖であることを資料館で知ることが出来た。

そして、私がカメラを持って立つこの「平和祈念資料館」は、沖縄県が造った設備で、二階が展示室になっていて(第一〜第五展示室に分かれており確か39のセクションに分けて展示していたと記憶して居る)氏名を書くと音声ガイドを無料で貸してくれたので、その案内を頼りに観て廻ったが、当時の記録や模型などで判り良く理解することが出来た。

メインペ−ジにある「平和祈念資料館」のホ−ムペ−ジで詳しく知る事が出来ます。

其の「沖縄県平和祈念資料館」は、沖縄の人達の熱い思いがぎっしりと凝縮されている素敵な場所で、県外の人は是非とも一度訪れて見ると良いと思う。

そして、摩文仁の丘は此処へ立つと平和であることの大切さが実に良く分かるロケ−ションの素晴らしさと歴史の重みを体験出来る貴重な場所であると思ったが、艦砲射撃の砲弾の雨の中で死ぬしか無かった人達や、米国軍の上陸による市街戦などで沖縄住民の4人に一人が何らかの犠牲で戦死をしたかつての太平洋戦争の惨さを旅の最初に見聞き出来たことは、後に鹿児島でそして佐賀で日本軍の悲話を知る上で沖縄との関わりを良く理解出来たことが今回の旅の思わぬ収穫のひとつであると思っている。

此処「ひめゆりの塔」は、確かに米国軍の猛進撃で地下壕(病院跡)迄逃げ延びて壮絶な死を遂げた女学生達を偲んで建てられた歴史のある場所では有るが、余りに言葉が有名になり過ぎて感動は少なかった。(石碑の前の穴がその地下に掘られた病院跡)

そして、此処の資料館で以下のことを知った。
それは、当時の女学生達240名(内先生18名)が昭和20年3月23日から南風原(はえばる)陸軍病院で日本兵の救護を開始し、4月1日に米国軍が嘉手納の辺りに上陸し摩文仁岳(軍司令部)を米国軍が攻撃(6月19日)した為に荒崎方面(現ひめゆりの塔の近く)へ逃げたが、そこで突然解散命令(6月18日)を聞くまでの90日間に19名が死亡したと言う。

しかし、その先の数日で100名余の女学生が亡くなったことが記されていたが、ひめゆり(女学校寄宿舎の愛称)部隊は米国軍から辱めを受けるより清い死を選び断崖絶壁(荒崎)から身を投じたことで知られている。しかし、実際にはそうした女学生ばかりではなく、半数がマラリヤで死んだり、地下壕で命を落としたりと身を投げた人数なども判明しない中で、物語が一人歩きしているように感じた。

糸満市役所で「沖縄伝統工芸館」の場所を聞いたが判明しなかったので、泡盛の酒造元を聞いたところ「比嘉酒造」を教えてくれた。そこは生産と販売をする工場で、泡盛の製造法や特長等を教えて貰いながら此処でお土産の泡盛を買い、
その後約1時間を掛けて那覇に戻り3時少し前に車を返して
3時頃には空港に到着した。そこで、まだ時間が有ったので空港の中をひと回りしたが、その先にあるモノレールで愛称が「ゆいレ−ル」の駅で撮ったのが左の画像である。処で、「ゆい」とは「ゆいま-る」と言う沖縄の言葉で、「助け合う」と
言う意味から名付けたのだそうだ。

また、飛行中に雲海を撮っていると、スチュワ−デス(最近はCAと呼びキャビン・アテンダントと言うそうだが)が話し掛けて来て、写真を撮りに沖縄に来たのとか、色々な話を聞きたいとの事なので今回の計画の話と明日からの予定表を見せるとビックリしていた。

そして福岡空港で降りる時に私の肩を叩く人がいるので振り向くと、先程のCAが来てANAの機体が印刷された絵葉書にコメントして渡してくれた。 「先程のお客様のお話しがとっても素敵でしたので、記念にどうぞ・・・」とのこと。
その葉書には「全国制覇頑張って下さいね」と書かれていた

 しかし、那覇空港の離陸時にANA490便は途中で上昇を止めて低空で徐々に上昇して行ったが恐らく米軍の軍用機とニアミスをしない為の飛行なのかも知れない。そう言えば来る時もかなり沖合いから低空で水平飛行していた様に思うが、お陰で素晴らしいイノ−(サンゴの環礁)をその分多く見る事が出来た。


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